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山村暮鳥について

 略歴

◆ 明治17年(1884年)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現・群馬県高崎市)に

 父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として出生。

 非常に複雑な家庭環境のなかで育つ。

◆ 明治23年〜24年(1890〜1891年) 元総社村尋常小学校に入学〜堤ヶ岡村尋常小学校に転入学。

◆ 明治28年(1895年)11歳 高等科を中退。上郊村生原(現・千葉県佐倉市)に移り、松山寺住職に漢籍を学ぶ。
 *自著『半面自伝』では「自分の前途は暗黒になつた。内から皮を剥ぐやうな生活がはじまつた。

 陸軍御用商人、活版職工、紙屋、ブリキ屋、貿易商、鉄道保線課、さうした所の小僧、職人、書記と

 転々流れながれた。女を知り、物を盗み、一椀の食物を乞うたことすらある」と回想している。

◆ 明治32年(1899年)15歳 堤ヶ岡小学校の臨時教員となる。

◆ 明治34年(1901年)17歳 前橋聖マッテア教会長老ゼ・チャッペル氏の英語の夜学校へ、

 往復7里(約28km)の道を毎夜通う。

◆ 明治35年(1902年)18歳 チャッペル氏の手により、洗礼を受ける。

 宣教師ミス・ウォールの通訳兼秘書として、青森聖アンデレ教会へ転任する。

 当地で新詩社の大井蒼梧を知る。

◆ 明治36年(1903年)19歳 ミス・ウォールの尽力により、東京・佃島の聖三一神学校に入学。

 それまでに自殺を図ること前後3回。

◆ 明治37年(1904年)20歳 この年から浪漫主義運動を展開していた前田林外、相馬御風、岩野泡鳴らの

 雑誌『白百合』に短歌を発表してゆく。筆名・木暮流星。

 2月に日露戦争が勃発。

◆ 明治38年(1905年)21歳 4月、北海道旭川連隊に入隊。7月、第七師団戦時補充兵として満州に駐屯。

 『白百合』への短歌投稿は続いている。

◆ 明治39年(1906年)22歳 聖三一神学校に復学。図書館係員。

 前田夕暮、三木露風、蒲原有明を知る。この年の終わり頃に詩を発表する。

 

◆ 明治40年(1907年)23歳 短歌から詩へと移行する。筆名・木暮八九十。

◆ 明治41年(1908年)24歳 雑誌『南北』創刊。

 秋田県秋田聖救主教会に伝道師として赴任。のち、同県横手町講義所に転任。

 『秋田魁新報』などに詩を発表する。

 

◆ 明治42年(1909年)25歳 秋田県湯沢講義所に転任。

 雑誌『北斗』創刊。また同時に『秋田魁新報』などに盛んに詩を発表。

 暮れに、日本聖公会仙台基督教会に転任。

◆ 明治43年(1910年)26歳 人見東明の主宰する自由詩社同人となる。

 この頃、ヂヤウキ宣教師より、フランス語を習う。

 人見東明の命名により筆名を「山村暮鳥」とする。

 8月、『La Bonne Chanson』(詩集・パンフレット)を自費出版。

 上級牧師と相容れず、仙台聖公会を離任。

 *自著『半面自伝』には「上級牧師と相容れず、家具蔵書の一切を売り飛ばし或は広瀬川に投棄し、

  一枚の葉書に告別せしめ、身をもつて走つた。

  全所有として懐中に一冊の赤くして小さきボードレールがあつた。」とある。

 東京・神田の東京諸聖徒協会に転籍。

◆ 明治44年(1911年)27歳 茨城・水戸聖公会に赴任。のち、常陸太田の太田講義所に転任。

◆ 明治45年・大正元年(1912年)28歳 福島・平町(現・いわき市)新田町講義所に転任。

 旺盛な詩作・発表をする。

 詩集『三人の処女』の刊行準備をするものの、出版社が罹災し、断念する。

 (尚、序文は島崎藤村であった。)

◆ 大正2年(1913年)29歳 第一詩集『三人の処女』を新声社より自費出版。

 新詩研究社を創設する。

 5月、土田三秀の長女・富士と結婚、養嗣子となり「土田八九十」に。挙式は水戸ステパノ教会。

◆ 大正3年(1914年)30歳 雑誌『風景』を創刊。三木露風、室生犀星、前田夕暮、白鳥省吾、片上伸、

 鈴木末造などの寄稿。北原白秋、萩原朔太郎と出会う。

 6月、萩原朔太郎、室生犀星と共に詩・宗教・音楽の研究を目的にする「人魚詩社」を設立。

 長女・玲子誕生。

 この頃、終生の友となる三野混沌(吉野義也)と出会う。

◆ 大正4年(1915年)31歳 人魚詩社より詩誌『卓上噴水』を創刊。

 長男・聖一郎が誕生するも早世。

 茨城県牛久に尊敬していた画家・小川芋銭を訪ねる。

 詩集『聖三稜玻璃』(せいさんりょうはり)を人魚詩社より出版。表紙画は広川松五郎。

 *教え子の小山茂一に次のような手紙を宛てている。

 「小生は今の文壇乃至思想界のためにばくれつだんを製造してゐる。

 (中略)此の詩集、今世紀にはあまりに早き出現である。千年万年後の珍書である。

  これ小生の詩集にして小生のものにあらず。即ち人間生命の噴水である。その聖くして力強きをみよー。」​

◆ 大正5年(1916年)32歳 詩集『聖三稜玻璃』に対して、詩壇から厳しい非難を浴びせられる。

 11月、詩誌『感情』に「ボードレール散文詩」の翻訳を発表したが、この翻訳には誤訳が多く、その誤りを

 雑誌『キツネノ巣』の山崎晴治が「不遜の言」「暮鳥氏訳、無韻小詩について」と題して、指摘し、

 「厚顔なる冒瀆者」「暴漢」と激しい口調で非難した。

 自著『半面自伝』には「〜加えて自分の芸術に対する悪評はその秋に於て極度に達した。

 或る日自分は卒倒した。其後の自分はドストエフスキーの研究とその翻訳に自己をささげた」とある。

 友人の花岡謙二宛ての手紙で「詩人としての暮鳥は四面楚歌なり」と伝えている。

 

◆ 大正6年(1917年)33歳 この頃より詩風が一変し、平明な文体になる。

 基督教青年会を設立、有志と野菜作りを始める。

 肋膜炎と診断され、妻・富士も病床に伏す。

 随筆集『小さな穀倉より』を白日社から出版。

 雑誌『感情』を去る。 

◆ 大正7年(1918年)34歳 茨城水戸市ステパノ教会に転任。

 9月、次女・千草が誕生。同月、結核により大喀血し、病床に伏す。

 『ドストエフスキー書簡集』を新潮社より出版。

 翌月、雑誌『苦悩者』を主宰創刊。

 11月、詩集『風は草木にささやいた』を白日社から出版(序文:土田杏村)。

 暮れに、静養のため千葉県北条町に移る。

◆ 大正8年(1919年)35歳 有島武郎より『苦悩社』の詩「真実に生きやうとする自分の詩」についての

 推讃の手紙を受ける。

 童謡誌『おとぎの世界』の選者となる。

 6月、茨城県大洗に住む。12月までという聖公会伝道師の休職通知が下る。

◆ 大正9年(1920年)36歳 福島県平町菊茸山で開墾生活をしていた三野混沌(吉野義也)の手により

 新築された家に移り住むものの、山麓の村民たちが暮鳥が結核患者でありクリスチャンだと知り、

 たった十数日で追放される。

 花岡謙二宛ての手紙には、「〜半生にもあたるくるしみを十数日で経験した」とある。

 友人知人文学仲間により暮鳥の生活を援助する「鉄の靴会」が発足される。

◆ 大正10年(1921年)37歳 詩集『梢の巣にて』を洛陽堂より出版。(序文:有島武郎)

 詩選集『穀粒』を隆文館より出版。

 童謡、童話、小説を盛んに書き、発表している。

◆ 大正11年(1922年)38歳 自伝風小説『十字架』を聖書文学会より出版。

 童謡童話集『万物の世界』を真珠書房より出版。

 童話集『葦舟の児』『少年行』『お菓子の城』を出版。

◆ 大正12年(1923年)39歳 小川芋銭と再会。

 長編童話『鉄の靴』を内外出版社より刊行。

 秋田雨雀の訪問を受ける。

◆ 大正13年(1924年)40歳 

 草野心平の訪問を受ける。

 詩集『雲』の準備にかかる。この頃、華厳経、正法眼蔵などを読み、感動する。

 9月、評伝『ドストエフスキー』をイデア書院より出版。

 10月、聖人伝『聖フランシス』をあおぞら社より出版。

 11月、病床で『雲』の校正を終える。

 12月病状が悪化し、意識不明となり、8日、永眠する。享年40歳。

​ 水戸光霖寺に埋葬される。

◆ 大正14年(1925年)1月15日

 詩集『雲』(画:小川芋銭)がイデア書院より出版される。

 

 略歴作成にあたり、以下の文献資料を参考にさせていただきました。

​ ★ 和田義昭:著『山村暮鳥研究』豊島書房

 ★ 伊藤信吉・山室静:監修『山村暮鳥全集』筑摩書房

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